ゲームコミュニティは誰が作るのか――「適応型」と「介入型」について

ゲームコミュニティは誰が作るのか
ゲームコミュニティは誰が作るのでしょうか。
ゲームを開発し、サービスを運営するのは当然ながら運営会社です。
ゲームの面白さ、魅力的なアップデート、不具合対応、ユーザーが遊び続けられる環境など、ゲームそのものについて最も大きな責任を持っているのは運営です。
では、そのゲームを取り巻くコミュニティについてはどうでしょうか。
攻略情報を書く人、動画を投稿する人、配信する人、コミュニティを運営する人、募集を立てる人、初心者を手伝う人、友達を誘う人、ただ毎日そのゲームを楽しんでいる人がいます。
僕は最近、ゲームコミュニティとは、そこにいる一人一人の小さな行動の総和なんじゃないかと考えるようになりました。
きっかけになったのは、僕が現在遊んでいる「スターレゾナンス」というゲームです。
言葉に活動する気力を奪われた
僕はスタレゾが好きで、これまで初心者向けの記事を書いたり、攻略情報をまとめたり、動画を投稿したり、配信でレイド参加者を募集したりしてきました。
別に僕一人がゲームを盛り上げてきたなんて思っていません。
僕以外にも攻略情報を発信する人、コミュニティを運営している人、初心者を手伝っている人、募集を立てる人、活動している人たちはそれぞれの方法で遊んでいます。
そんな中で、「スタレゾは衰退期」という言葉を目にしました。
これが思っていた以上に自分に刺さりました。
普段、主張のよく分からないアンチコメントなら「そういう意見もある」で切り分けられますが、この言葉は僕と同じ未来を見たプレイヤーからの言葉です。
「クソゲー」は主に現在の評価として受け取れます。
一方、「衰退期」には現在だけでなく、この先も下降していくという未来のイメージまで含まれているように僕には感じました。
加えて、ギルド運営を行ってコミュニティに貢献してくれていた人が最後に言ったのが「スタレゾ衰退期」という言葉です。
現在を指摘しているのではなく、ゲームのコミュニティに携わったうえで辿り着いた、未来に対する否定的な結論です。
この言葉のそもそもの強さの背景以外に、未来を創ろうとした人の心が折れて口に出た結論が含まれています。
この時期はスタレゾ活動者がどんどん引退しており、活動しなくなった配信者の方もいました。
同じ活動者として何かできたんじゃないか、と考えてしまいます。
「俺が今までやってきたことって何だったんだろう」「他の活動していた人がしていたことは何だったの」という無力感を覚えました。
以降、スタレゾに関する活動のモチベーションがかなり落ちました。
「衰退期の悪魔」が現界してしまったわけです。
この悪魔は厄介で、衰退期の否定には1人では立ち向かえません。
後述しますが、活動者は未来を変えようとする介入型が多いです。
活動者が減っていく状況そのものが、僕には「衰退期」という未来を現実味のあるものに感じさせました。
そこで僕は、この言葉について自分なりのSOSとしてYouTubeに動画を投稿しました。
すると様々な意見が集まってきました。
その意見を読んでいるうちに、最初に抱えていた「衰退期って言われて悲しい」という感情よりも、もっと面白い問題があることに気付きました。
ゲームコミュニティに対してユーザーはどこまで主体的であるべきなのか、です。
「俺たちが楽しければいい」という適応型の考え
動画への反応の中で興味深かったのが、「人口なんて気にせず、今いる人たちで楽しめばいい」という意見でした。
最初は僕とかなり違う考え方だと思いました。
でも、よく考えてみると、この考え方にはかなり大きなメリットがあります。
- 人口が減っても楽しめる。
- SNSで「過疎」と言われても気にしない。
- 野良募集が減れば固定を組む。
周囲がゲームをどう評価していようと、「俺は今日も楽しい」と言えます。
MMORPGを長期間遊び続けるうえでは、かなり強い考え方です。
僕はこういう人たちを、この記事では便宜上、「適応型」と呼んでみます。
適応型の人は「現在」の楽しさを守る
適応型の人の最大の強みは、環境に左右されにくいことだと思います。
- ゲームの人口が減った。
- 攻略サイトが更新されなくなった。
- SNSでネガティブな話題が増えた。
それでも、「俺たちはまだ遊べる」とゲームを楽しむことができます。
外部環境に依存しないので、非常に壊れにくいですね。
そして、こういう人たちが最後までゲームを遊び続けるプレイヤーになることも多いでしょう。
- ゲームを流行らせなくてもいい。
- 巨大なコミュニティじゃなくてもいい。
- 自分たちが遊べる場所さえ残っていればいい。
これは一つのゲームとの付き合い方です。
ただ、僕にはどうしても気になる部分があります。
適応しすぎることで問題を受け入れてしまう
環境への適応能力が高いことは、逆に言えば環境が悪くなっても適応できてしまうということでもあります。
- 野良募集が成立しない、だったら固定を組めばいい。
- 新規が来ない、でも今いるメンバーで遊べる。
- 人口が減った、それでも俺たちは困っていない。
ここまでは何も問題ありません。
僕が怖いのは、その先です。
「俺たちは困っていない。だから問題なんてない」となってしまうこと。
さらに進めば、「楽しく遊んでるんだから、問題について触れるな」となることもあります。
そうなると、適応は現状を楽しむための手段ではなく、変化を拒む理由になります。
「面白いならもっと広めよう」という介入型の考え方
僕は明らかにこちらです。
面白いゲームを見つけると、「こんなに面白いなら、もっと色んな人に知ってもらいたい」と思います。
- 情報が足りなければ攻略を書く。
- 初心者が困っていれば初心者向けの記事を作る。
- 面白いコンテンツがあれば動画にする。
- 人が足りなければ募集する。
- 問題があると思えば問題提起する。
つまり、今ある環境に自分を適応させるだけではなく、環境そのものにも働きかけようとする。
僕はこういう人たちを、この記事では便宜上、「介入型」と呼んでみます。
介入型は「未来」の可能性を守ろうとする
適応型が「今、このゲームを楽しめるか」を重視するとすれば、介入型は「このゲームがこれからどうなるか」まで気にします。
例えば人口が減っているとします。
適応型の人なら、「まだ遊べるから大丈夫」と考えるかもしれません。
介入型の人は、「このまま減ったらどうなる?」と考える。
そして、「新規にゲームを紹介しよう」「初心者が定着できる環境を作ろう」「募集を増やそう」と行動する。
このタイプが持っている最大の強みは、未来を変えられる可能性があることだと思います。
ただし、こちらにも大きな弱点があります。
介入型は無力感に弱い
- 攻略記事を100本書いても、ゲームが流行る保証はない。
- 動画を投稿しても、人が増えるとは限らない。
- 初心者を手伝っても、その人が来月まで遊んでいる保証はない。
ユーザーができることには限界があります。
それでも介入する人は、「何かすれば変えられるかもしれない」と思って行動します。
だから未来が否定されたとき、「俺がこれだけやって何になるんだ」という無力感が生まれます。
今回「スタレゾ衰退期」という言葉が僕に刺さった理由も、今ならこれだったのだと思います。
僕は単純に、「好きなゲームを否定された」からもやもやを抱えているわけではありません。
自分なりにゲームのためになると思って続けていた行動に対して、「そんなことをしても未来は変わらない」と言われたように感じました。
だから活動する気力まで失ったのだと思います。
適応型と介入型は、見ている時間軸が違う
ここまで考えて、両者の議論が噛み合わない理由も分かってきました。
適応型の人は、現在を見ています。
「俺は今楽しめている」「今の人数でも遊べている」「だったら問題ない」
介入型の人は、未来を見ています。
「今は遊べている」「でも半年後は?」「今から何かできないか?」
だから、「人口なんて気にせず楽しめばいいじゃん」と言われても、介入型の人には答えになっていません。
逆に、「このままだと危ないから何かしよう」と言われても、適応する人からすれば「なんでゲームでそんなことまで考えなきゃいけないの?」となると思います。
どちらかが正解・不正解なのではなく、そもそも守ろうとしているものが違います。
- 適応型の人は、現在の楽しさを守る。
- 介入型の人は、未来の可能性を守ろうとする。
僕はそう整理しています。
昔のLoLコミュニティを見ていて感じたこと
僕が適応型の考え方に少し警戒心を持っている理由には、自分の過去の経験があります。
昔、日本でLeague of Legendsが今ほど知られていなかった頃、「海外では大人気だけど、日本では流行っていない」という状況そのものをアイデンティティにしているように見える人たちがいました。
僕には、「日本では流行ってないゲームをやってる俺たちは分かってる」という選民意識に見えることもありました。
もちろん、当時のLoLプレイヤー全員がそうだったわけではありません。
むしろ逆に、日本でほとんど知られていない時代からゲームを遊び続け、初心者に教え、大会を開き、情報を発信し、コミュニティを維持してきた人たちもいました。
現在の日本におけるLoLの状況には、運営、競技シーン、ストリーマーなど数え切れないほどの要因があります。
だから昔から遊んでいたユーザーのおかげで流行った、と単純化するつもりはありません。
ただ僕は、「どうせ日本では流行らない」で全員が諦めた世界と、何年もゲームを支え続けた人たちがいた世界が、まったく同じ未来だったとは思えません。
PSO2では僕自身が介入することを諦めた
PSO2でも、僕は似たことを考えた経験があります。
ゲームやコミュニティに問題があると思って問題提起しても、「俺たちは楽しめているからいいじゃん」という空気を僕は感じていました。
そして最終的に、「ここで何か言っても仕方ないな」と思って僕自身が手を引きました。
もちろん、PSO2やその後のシリーズがどうなったかを、ユーザーの姿勢だけで説明することはできません。
運営やゲームそのものの問題など、遥かに大きな要因があります。
でも僕の中には、問題に適応し続けることへの怖さが残りました。
スタレゾはかなり特殊なケースになっている
そして今、スタレゾを遊んでいます。
僕はこのゲームに終わってほしくありません。
少なくとも僕は、PSOやFFのような長く続くシリーズには、仮に一作品が終わっても「次があるかもしれない」という感覚を持てます。
スタレゾには、同じ楽観を持てません。
ブループロトコルがサービス終了し、スターレゾナンスまで終わってしまったらブループロトコル2はきっとリリースされない、このプロジェクトスカイブルーはこれで終わってしまう。
ブルプロから追ってきた人の中には、この危機感を共有してくれる人もいると思います。
だったら僕は、終わってから「あのとき何かできたかもしれない」と後悔する方を選びたくないんです。
「衰退期」という言葉について触れるべきではなかったのか
今回の動画には、「その話題に触れること自体がネガティブな空気を広げる」という批判もありました。
特に、「スタレゾ衰退期という強い言葉をサムネイルに使うこと自体が逆効果なのではないか」という指摘には納得しました。
実際、動画を見ていない人まで「スタレゾ衰退期」という言葉に反応しました。
だから僕自身、「そりゃ俺もこの言葉に影響されたよな」と思いました。
それくらい「衰退期」は強い言葉でした。
僕自身もその言葉を再び広げてしまった部分については、考える必要があると思っています。
それでも、問題について触れたこと自体は後悔していません。
僕は自分の意見が正しいことを証明したかったわけではありません。
実際、動画を出したことで自分とは違う考えをたくさん知ることができました。
そして、「このままの流れで、本当に俺たちはいいのか?」という問題提起の種は植えられたと思っています。
流れを変えたいのなら、誰かが流れについて話さなければ始まらない。
それが僕の考えです。
ユーザーはゲームを救えるのか
ここで一つ、大きな疑問があります。
そもそもユーザーが頑張ったところで意味があるのでしょうか。
最終的にサービスを運営するのは企業です。
ユーザーがどれだけ頑張っても、採算が取れなければサービス終了するかもしれません。
だから、「ゲームを存続させる責任はユーザーにもある」とは僕は思いません。
それは運営の仕事です。
ただし、「だからユーザーにできることは何もない」とも思いません。
僕が好きな例の一つが、旧FF14から新生FF14への移行です。
新生FF14を作ったのは、当然ながら開発・運営チームです。
でも旧FF14が終わるまでゲームを遊び、支え、新生を待ったユーザーたちもいました。
そのプレイヤーたちの名前がスペシャルクレジットとして残されたことを、僕はとても象徴的な出来事だと思っています。
ユーザーはゲームを開発できません。
サービスを継続するかも決められません。
それでも、ゲームの歴史を構成する存在ではあります。
僕はそこに可能性を感じます。
コミュニティは「小さな行動の総和」
だから僕は、「自分は攻略記事も動画も作れないから無力だ」とは思ってほしくありません。
そんなことをする必要はありません。
募集を立てる、誰かの募集に参加する、初心者を手伝う、友達を誘う、ゲームで面白かったことをSNSに書く
あるいは、今日も普通にログインして、誰かと遊ぶ。
それだけでもいいんです。
コミュニティという巨大な何かが先に存在して、僕たちがその中にいるわけではない。
僕はむしろ、僕たち一人一人の行動を全部足したものを、後から「コミュニティ」と呼んでいるのだと思っています。
だったら一人一人は無力ではありません。
適応型と介入型、どちらが正しいのか
この記事を書きながら考えても、答えは出ません。
たぶん、正解を決める問題ではありません。
適応型には、コミュニティを安定させる力があります。
周囲が何と言おうとゲームを楽しみ、最後まで残ってくれる。
介入型には、コミュニティを変化させる力があります。
新しい人を連れてきたり、問題を指摘したり、新しい活動を始めたりする。
どちらも必要なのでしょう。
ただし、どちらにも危険な状態があると思っています。
適応型は変化を拒む危険、介入型は変化を強要する危険が存在します。
どちらも、自分のゲームとの付き合い方を他人にまで当てはめた瞬間に危うくなるのだと思います。
僕と同じ介入型の人へ
僕はこれからも介入型の人でいると思います。
性格的に、「俺たちだけ楽しめればいい」とはたぶん思えません。
好きを布教するオタクでいたいです。
- 面白いものを見つけたら人に伝えたい。
- 問題があると思ったら考えたい。
- 何かできそうなら実際にやってみたい。
でも、その結果まで全部自分で背負う必要はないです。
介入型は人を変えるエネルギーを持ちます。
反面、変わりたくない人からは嫌われやすいです。
攻略を書いた結果、誰か一人が助かった。
募集した結果、今日は20人で楽しく遊べた。
それでいいんです。
動画を出した結果、賛成した人も、反対した人もいた。
でもゲームコミュニティについて考える人が生まれたならそれでいいです。
介入型として活動していると、孤独を感じることがあります。
「なぜそこまでゲームのことを考えるの?」と言われることもあるでしょう。
そんなとき、自分と同じように「好きだから何かしたい」と行動している人の存在に救われることがあります。
結果が出なかったときの無力感や、自分だけが問題を気にしているように感じる孤独は、実際に介入してきた人ほど理解しやすいのかもしれません。
だからこそ、介入型同士でも一人ですべてを背負わず、互いの活動を認め合えればいいと思っています。
結果が出ない状態が続くと、実際以上に「何をしても無駄だ」と感じてしまうこともあります。
ゲームコミュニティは誰が作るのか
最初の問いに戻ります。
ゲームコミュニティは誰が作るのでしょうか。
運営、配信者、攻略サイト、コミュニティ運営者でしょうか。
僕は、そのゲームで遊ぶ全員だと思います。
ゲームを作るのは開発者です。
サービスを運営する責任を持つのは運営会社です。
でも、そのゲームの周りにどんなコミュニティが生まれるのかは、ユーザーの行動とも無関係ではありません。
募集を立てる、参加する、初心者を助ける、攻略情報を発信する、面白さを外へ伝える、誰かが問題を指摘する、肯定・反論する、そして誰かが今日も普通にゲームを楽しんでいます。
その全部がコミュニティです。
だから僕は、ユーザーの力は無力ではないと思っています。
もちろん、僕たちが何をしても終わるゲームはあります。
それでも、何もしなかった未来と、好きだった人たちが何かした未来が、必ず同じになるとは僕には思えません。
だから僕は、自分にできることをやります。
ゲームの未来を背負うためではありません。
自分の意見が正しいことを証明するためでもありません。
ただ、好きなゲームに少しでも良い未来がある可能性を、自分から捨てたくないだけです。
そして、いつか本当に終わる日が来たなら、「どうせ何をしても無駄だった」ではなく、「俺たちはやれることをやった。それでも終わった。」と言えるならそれで良いと僕は思ってます。
僕はゲームコミュニティを構成する一人として、そんな未来を選びたいと思っています。








